「カルロス・ゴーンは悪者か?」と考えたのがきっかけで、
色々調べている中で出会った1つの記事を読んで、
「なるほどそうだったのか!」と多くの疑問が解消しました。
その記事を、
私がその記事を読み解くのに勉強した内容を付加して、
ビジネスや法律などに詳しくなくても分かりやすいように、
ドラマのようなストーリー形式で解説したものが本記事です。
ビジネスや法律に興味はないけど、
話題のカルロス・ゴーン氏が悪者なのか?という疑問に興味があれば、
どうぞ読んでみてくださいね。
約20年…正確には19年の間に、日産でカルロス・ゴーン氏が何をしてきたのかを理解すると、
カルロス・ゴーン氏に関するドラマティックなストーリーの全体が分かってきて、
話題の「日産カルロス・ゴーン元会長逮捕事件」への興味・関心が深まり、見方が変わってくるかもしれません!
この記事は全10話のストーリーの、はじまり、第1話目です。
1話目は、2つの内容があります。
「ストーリーの前提」と「日産と交わる直前のカルロス・ゴーン氏」についてのお話です。
2話目以降から、日産とカルロス・ゴーン氏の約20年のお話が始まります。
私が感銘を受けた元の記事に敬意を払いながら、
大切な表現や構成をできるだけ壊さずに、
基礎情報がなくても分かりやすい表現と順番で、
読みやすいストーリー形式で作成しています。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
カルロス・ゴーンは悪者か?日産とゴーン氏の20年の歴史ストーリー
1話目「はじまり」
Contents
ルノーと日産が「資本提携」したきっかけを作った男
この物語を語るのは、ドラマで言うところのナレーターは、
1993年当時、世界中を仰天させたビッグニュースだった、
日産&ルノーの資本提携の立役者の1人、
中西孝樹(ナカニシ タカキ)さんです。
この時、中西さんは、
世界三大投資銀行の1つ、アメリカのメリルリンチで働いていて、
ちょうど提携先を探していて、日産に興味を持っていたルノーに、
「日産ってどんな会社?」と聞かれて、
「日産はこういう会社ですよ!」と説明した男が、
まさにこの物語の語り手、中西さんでした。
現在はメリルリンチを離れて、
自ら設立した、ナカニシエンジニア産業リサーチの代表として、
自動車業界を客観的な視点で分析するコメントや著書で人気を集めています。
日産とルノーの「本当のはじまり」を間近で見て、
現在も現役で自動車業界を偏りなく見る目を持つ男が、
カルロス・ゴーン氏と日産の約20年にわたる物語を語ります。
ミシュランからルノーへ引き抜かれた時のゴーン氏
初めて私がカルロス・ゴーン氏にお会いしたのは、1990年代後半
カルロス・ゴーン氏は、この時、
欧州最大のタイヤメーカー、ミシュランの北米の社長(CEO)でした。
当時のルノーは、フランスの国営企業から民間企業に切り替わったところ。
新しく民間企業に生まれ変わった「ルノー」の事業再生のために、
当時のルノーの社長(CEO)から引き抜かれて、
ミシュランからやってきたのが、
カルロス・ゴーン氏でした。
中西さんが、ゴーン氏を初めて見たのは、
ルノーの上席副社長(社長の補佐役)になった1年後、
ルノーの投資家向けの説明会でのことで、
ゴーン氏が、ルノーの事業再生を引っ張り始めた頃です。
「コスト・コスト・コスト」と、コストを削る話ばかりで、
この当時からすでに、ゴーン氏は、コストカッターという印象を関係者に与えています。
外見は、眼鏡をかけていて、髪型などのせいもあって、今より野暮ったい印象だったそうですが、
エネルギッシュで、実力で上り詰めてきた「有能な経営者」
という雰囲気を持っていました。
ひっそりと日産を狙うルノー
当時経営状態がボロボロだった日産を、密かに狙っているヨーロッパ企業がありました。
それは、
大々的に資本提携の噂のあった、メルセデスベンツで有名な、ドイツのダイムラー!
ではなく、
グローバル展開のための提携相手を探していた、フランスのルノーでした。
当時、経営状態がボロボロの日産は、
ダイムラーとの資本提携で窮地を脱することができる!
と日産自身も周りも考えていました。
ですから、ダイムラーによる日産「救済劇」を期待して、
日産はダイムラーとの資本提携を必死で模索していました。
ところが、
最終的にダイムラーが資本提携を発表したのは、日産ではなく、アメリカのクライスラーでした!
1989年に世紀の大合併と言われる「ダイムラー・クライスラー」が誕生。
ダイムラー・クライスラーは、
世界販売台数6位、ビジネス用の車としては世界最大のメーカーになりました。
一気に風向きが変わりました。
クライスラーとの合併が決まるや否や、
「日産との資本提携の話は、なかったことにする」
と、ダイムラーは、「救済劇」からサッと身を引いてしまいました。
大失恋した日産は、
新聞各社に「ダイムラー撤退で、日産が窮地に追い込まれた」と日本中で騒がれます。
日産絶体絶命の状況です。。。
ところがその時、
日産のダイムラーへの大失恋の裏では…
ルノーによる「もう1つの救済劇」が、大詰めの段階に来ていました。
私もメリルリンチで関わっていた案件として、
水面下でルノーが(日産)救済のカウンター案を出していたのです。
この年の春、実は、ルノーの当時の会長CEOシュバイツァーが急遽日本を訪れて、日産を表敬訪問していました。
【ビジネス用語豆知識】
表敬訪問
本来の意味は「“あなたを尊敬しています” という気持ちを伝えるために、相手を訪問すること」で、
ビジネスなどで、特に用事はないけど、挨拶のために相手の会社を訪問することでもあります。
実は、
ルノーのシュバイツァー会長CEOのこの来日の時、
米メリルリンチの証券アナリストだった私は、シュバイツァー会長に呼ばれました。
「日産はどんな会社か教えてほしい」とのことでした。
私は、シュバイツァー氏らルノーの経営幹部たちに、当時の日産について正直に語りました。
「日産はとんでもない会社だ」
「20年前はトヨタと肩を並べていたのに、この10年、ろくに利益を出したことがない」
「クルマ1台を設計するのに、フロント部分はこの専務、リアは別のあの専務担当で、それぞれの言い分を聞いている」
「調達はシェア割りで、全て政治的に決まり、コストはどんどん膨らむ」
等々……。
実は、当時の日産は、誰も引き受けたがらない会社でした。
日本にとって、その当時も、自動車産業は国の経済を支える大黒柱となる産業です。
日本政府は、当時のボロボロの日産を立て直すために、
今の経済産業省(当時は「通商産業省」と言いました)で、「Nプロジェクト」と呼ばれる救済計画を立ち上げましたが、
白旗を上げて、ルノーと日産が資本提携をした後、
宇宙・航空事情など国家安全に関わる事業のみを切り離して引き受け、
問題の日産は、ルノーに託して終了しました。
日産が猛アタックの末大失恋した、ドイツのダイムラーにはこんな話もあります。
ダイムラーが日産にロックオンされたのは、
実はルノーの前にダイムラーから日産への接触があったからでした。
ダイムラーからの接触以降、
日産は、ダイムラー内部では、「パシフィック(太平洋)」というコードネームで、密かに呼ばれていました。
ところが、日産の状況を知ったダイムラーの取締役会では、日産の「救済」に大反対!
「うちのCEOが買おうとしている日産など、おもりをつけて、太平洋(パシフィック)に沈めてしまえ!」
という言葉が飛び出すほどだったそうです。
それほど当時の日産は、
何が出てくるかわからない「不良資産の塊」とみなされていたのです。
そんな日産に対して、ルノーは、
座して死を待つより「打って出る」
という覚悟を決めます。
当時、資本提携案件に関与していた私に、ルノー側で買収交渉を担当していた財務担当役員は、こう話していました。
「リスクはあるけれど、我々にとって最大のチャンスだ。ギャンブルだが、やるしかない」と。
誰も手を出したがらない、ハイリスクな大賭けに出たルノーが、
日産に送り込んだカードが、
カルロス・ゴーン氏でした。
2話目につづく…
参考資料
本記事のベースとして主に参考にしたのはこちらの記事です。
News Pics
「緊急特集 ゴーン事変 そうだったのか独裁帝国!【保存版】ルノーと日産「20年史」のすべて」
1話の作成において参考にさせて頂いた資料
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